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執筆者の写真可児波起

【東日本大震災がつないでくれた『ご縁』】

更新日:2023年1月7日


【東日本大震災がつないでくれた『ご縁』】


2011年3月11日

東日本大震災


当時34歳だった僕は、


「今、自分に何ができるのか?」


を問い続け、震災で被災された「小学校」「中学校」「高校」800校以上に「東日本大震災 復興希望ソング集」として製作した


・幸せの歌

・希望がある

・この町



の3曲入りのCDと、手紙を送り、お返事をもらえた学校を訪ねる、ということからボランティア活動をスタートしました。



それから3年間。

毎月2〜3泊のペースで被災された場所を訪ね、


・歌ったり

・ロックフェスを開催したり

・仮設商店街のホームページを作りまくったり

・町の復興計画の計画書を作成したり

・肩を組んで、飲み明かしたり、、、



心が動くことに素直に、濃密な時間を過ごしました。

そして、素晴らしい「友人」「仲間」がたくさんできました。


先月、その時に制作した「東日本大震災 復興希望ソング集」を音楽配信サービスでリリースし、1週間で10,000回以上も再生されました。




そして、

今も、僕は、震災で出会った仲間たちと、繋がっています。


震災から11年以上

「可児さん元気??」

と連絡がきて、今は、オンラインで、一緒に音楽を作ったりしています。


パソコン選びから、マイク、ソフトウェアの選び方などなど、出来上がった曲を聞かせてくれて、あーでもない、こーでもない、いいながら楽しく素晴らしい日々を過ごしています。



もう「被災地支援」とか、そういった概念ではなく


「少し離れたところにいる、大切な友人」


という関係になれました。



本当は、10月に岩手県に会いにいく予定だったのですが


「可児さん、もうスタッドレスタイヤじゃないと、厳しいよ。また春になったら遊びにきてよ」


なんて、話したりしています。


iPhoneの写真を見てみると、当時の

「日時」「場所」が記憶されていました。


釜石市 - 大町

2013年10月18日 18:43


あの日、岩手県釜石市で、一緒にご飯を食べた記憶が蘇ります。


デジタルの良いところ。


あの日から、ずいぶん長い時間が経ち、記憶から、どんどん薄れていくのは、しょうがないけど、新しい、素晴らしい記憶が「上書き」されていくことを、とても嬉しく思っています。



忘れない

風化しない

共に、歩み続ける

当時、自分自身に決めた、キャッチプレーズ。

それは、まだ続いています。

終わり。。。




著者名:
【可児波起:海辺の部屋CEO】
ラップミュージシャンとしてメジャーデビュー。障がい者の介護職をするラッパー「介護ラッパー」としてフジテレビで2度特集。ビジネス領域では、「デジタルマーケティング」「Webマーケティング」のスペシャリストとして「ナショナルクライアント(東証プライム)企業」で、戦略コンサルタントなどを行う。高速のキャッチアップ、PDCAで、「確実に成果を出し」続けている。
「マーケティングは『愛』である」という、「人の優しさ」を大切にしている
ポートフォリオサイト:
https://www.behance.net/namikikani

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